むかしそこそこ流行ったけど今は何やってるかよくわからない歌手とかのベスト盤は、後半厳しい曲が並んでいることが多い。あれはなぜなんだろう。まあ、「才能が枯渇した」とかいったら簡単なんだけど、そういう説明はなんか怪しい。わたしは中学とか高校時代にミュージックマガジンを読んでいたクチなので、この「才能が枯渇した」型の説明はなんか当然のような気がしていたんだが、よく考えたらなんの根拠もない。こういう説明ってたとえば中村とうよう的な「本質主義」と関係があるのだろうか。まあ、中村とうようが本当に本質主義なのか知らないけど、確かにたとえばオーティス・レディングなんかについて似たようなことを言っていた気がする。「早死にしてよかった」的な。それに対して亡くなった者に対してなんてこと言うんだ的な反論をしていた人がいたような気がするが、そんな意見はどうでもいいとして、やはりなんか「才能の枯渇」と「本質主義」は関係があるような気がする。中村とうようにとって本質ってなんだろう。民族の魂とかそんなようなものだろうか。まあ違うかもしれんが仮にそうしておこう。その本質たる魂をそれぞれの音楽がどれだけ分有しているかというのが問題になるのだろう。しかしこれはそれぞれの曲に関してしかいえず、ある曲の連続における分有のあり方の漸次的変化についてなんら必然性を与えないような気がする。そもそも「ある曲の連続」ってなんだと言うことになるが、まあこれについては今はよい。要するに、「本質主義」の名のもとに「才能が枯渇した」と言うためには、本質主義とは別の原理が必要になるはずで、それはおそらく「本質」とは関係ない。まあどうせ中村とうようだから、大して考えていないんだろうな。そういえば深沢美樹もレコードコレクターズのマイルス・デイヴィス追悼号で、「彼の音楽的なキャリアはもう終わったから彼の死には特別な感慨はない」的なことを言っていたが、こういうのを見るとがっかりする。そんなの一般リスナーの意見じゃないか。要するに何も考えていないのだ。「前のアルバムがダメだから、次のアルバムもダメだろう」ぐらいしか考えていないのだ。そんなんで音楽評論家って言うのか? あるいは深沢美樹って(カリプソあたりの)輸入業者か?(今は何やってるか知らないけど)
そう考えると、ポピュラー音楽について厳密に本質主義的な批評ってできるのか? という疑問が湧いてくる。つまり、世代論的、作家主義的な妥協なしに、「魂」とかをポピュラー音楽から引き出せるのだろうか? それはかなりかっこいい気がするのだが。そんなことを渡辺真知子のベスト盤を聞きながら考えてしまった。