いまThéodule RibotLes maladies de la mémoire(Serge Nicolas, La mémoire et ses maladies selon Théodule Ribot所収)を読んでいるのだが、忘れないうちにちょっとかいておこう。

まだ本文に入ってなくて、Nicolasの序文を読んでいるのだが、そこで興味深かったのがRibotに対するJohn Hughling Jacksonの影響についてかいていたところだ。確かこの人はFoucaultのMaladie mentale et psychologieに出てきた人で、病理というものを発達の観点から説明しようとした人だ。要は発達がおかしくなるから病気になると。ちなみにJacksonはévolutionという言葉を使っているが、Nicolasによればこの人にとって脳の発達とか脳の内部での精神の発達(processus mentaux)もみなévolutionであるらしい。だから一応発達といっておく。まあそれはともかく、この人の名前はFoucaultとかCanguilhemとかの本には結構出てきたと思うが、Nicolasの本ではいままで見たことがなかった。結構結びついた気がする。

面白かったのが、automatismeという概念についてだ。どうやらJacksonにとって発達とは単純なものから複雑なものへの移行であり、病んでくるとその逆、つまり複雑なものから単純なものへと移行してしまうらしい。したがってその結果心的、身体的な働きがautomatiqueになってしまうということになるらしい。おそらくJanetのautomatismeもその線に沿っているのだと思う。これは要するに健康な人間の社会が複雑なものであり、病んでいる人たちはその複雑性に対応することができないということをJacksonやらRibotやらが信じているということであると思う。

それにたいしてArtaudもautomatismeという言葉を使うのだが、それは上記のような意味とは全く逆だと思う。まずそれまでのautomatismeは病理の結果としてそうなるものであったが、Artaudにとっては、むしろ健常者が問題なく社会生活を行うためにautomatismeを機能としてもっているのだという。彼にとっては思考はそもそも言語にしたがって線的に展開されるようなものではなく、もっとめちゃくちゃになっている。で、そのめちゃくちゃな思考を自分の力で順序づけようとするとその順序づける思考も自分の力で順序づけなければならず、思考が永遠に外に出ることができなくなってしまう。そこで必要なのがautomatismeでそれが思考の規則に従っていようがいまいが勝手に展開してゆくための方便なのである。Artaudが自分の病気について語るとき、automatismeが失われたというのはまさにこのような思考の「通常の」機能が失われてしまったということを示している。これはJackson-Ribotと違ってArtaudにとっては複雑なのは思考する我々の方であって、むしろ社会は単純であることを強制する。このような考え方はBlondelのそれとかなり近いと思う。

もっといえばJackson-Ribotと逆にArtaudにとっては病んでいるとは単純になれないことであり、複雑な思考が複雑な思考のまま表出せざるを得ないというところに病理があるということがいえると思う。じゃあ何でArtaudがそのような病に陥ってしまったのか。何でなんでしょうね。