ちゃんと調べた訳じゃないから思いつきだが、日本のお笑い番組の歴史は笑う人の位置の変遷であるといっていいと思う。つまり「だれが笑うのか」「どこで笑うのか」。この二つの問いに対する回答によってお笑い番組が歴史的に位置づけられるのではないかと思う。

わたしがリアルタイムでぎりぎり覚えているのが『全員集合』だが、あれは一番原初的な形だと思う。つまり劇場の中継だ。笑うのは観客だしそれは自明だ。この点は構成上どうやってもいじることができない。それに対して『ひょうきん族』では、まあスタジオということもあるのだが、笑うのはスタッフであり、彼等は画面の外から笑うわけだがそれは観客席の場合ほどに疑い得ないものではない。彼等は出演者と同様に番組を制作しているわけだし、純然たる観客ではない。それを証し立てるようにスタッフも何らかの誤りを犯したときには番組の最後に懺悔せざるを得ない。

あんまり見ていないのでなんだが、テレビにおけるお笑いの歴史というのはこの笑う人の内面化の歴史ではないかと思う。とんねるずの番組においては、笑うスタッフたちは『ひょうきん族』におけるようにその場所をほのめかされるだけではなく、実際に出演する。最初は出演者がプロデューサーの物まねをしたりしていたいが、「野猿」の企画においては完全に出演者となる。

そして『ウリナリ』や『めちゃモテ』とかになると、笑う人はもはや外在的ではなくなる。出演者が笑わせる(あるいは笑われる)者であり、同時に笑う者でもある。出演者たちはある程度固定され、笑う者と笑わせる/笑われる者との役割分担ができる。そしてこのような手法はある程度今でも行われているように思われる。もはや「芸」とか「ネタ」はこの笑いを位置づける構造と切り離して考えることは(少なくともテレビ番組においては)できない。この意味では『内P』とか『ロバートホール』とかでコントをやるのと、『オンバト』でやるのとでは意味が全く違う。テレビでコントをやるということは、単にコントをやるということではない。

こんなことを考えながら先週から始まった『ワールドダウンタウン』を見て、がんばって新しいことをやろうとしているんだなあという気になった。ダウンタウンはやはりテレビでコントをやることの意味をよくわかっているのだと思う。たぶんもう『ごっつええ感じ』でやっていたようにはコントをテレビでやることはないだろう。そう思いたい。

はっきり言って『一人ごっつ』や『松ごっつ』で大喜利めいたことをやったときはちょっとがっかりした。「大喜利めいたこと」というのはいわゆる大喜利だけじゃなくて、大喜利がそうであるように問いを固定することである。問いを固定するというのは、上でいった意味での「笑いの位置」の問題をいったん不問に付すことに他ならない。もちろんこのように不問に付すことによっていわば職人的に何かできるのかもしれない。そしてそれはたぶんすごいことなんだろう。志村けんみたいに。まあわたしは見ないけど。『一人ごっつ』などを見たとき、そういう意味での職人に松本人志はなってしまったのかなあと思った。
しかし『ワールドダウンタウン』は何かそういう職人的ではない意図を感じる。それが何かまだよくわからないけど。でも松本人志が大好きな人にとってこういう番組は納得がいかないのかな。そういう人達は昔みたいにコントをやってほしいのだろうか。それはどう考えても退化だと思うんだが。