Francis PONGE, Le parti pris des choses, Gallimard, 1948

Bonnyfoyを読んだあとにこれを読んだので、ある意味でBonnyfoy批判としても読める。Bonnyfoyは物を概念へ至るための装置のようなものとしてとらえているようだが、Pongeはこのような態度を批判しているようだ。タイトルにもあるように(『物の味方』)、物を物としてとらえることを主張する。そのわりには言葉遊びや駄洒落的なものが多いじゃないかと思ったが、どうやら彼は言葉も物であると考えているらしい。Le gymnasteという詩においては、体育教師や体操選手について書くよりも前に、その後のGやYについて語る。おそらくPongeにとってこれらの文字は体操選手の体躯や外観と同じ地平にあるものなのだろう。これは確かにわかる。Bonnefoyを読んだときに感じた疑問はまさにこの点にあり、そのためこいつは本当に詩人なのかとか思ったりした。
しかし何か納得がいかない点があった。いまだにそれは明確にはできないのだが、次の文を読んだときに何となくそれがわかった気がした。

Le poète ne doit jamais proposer une pensée mais un objet, c'est-à-dire que même à la pensée il doit faire prendre une pose d'objet.
訳:詩人は決して思考を提出すべきなのではなく、対象を提出すべきなのだ。それはつまり、思考に、対象の態度を取らせなければならないということだ。

まあ変な訳だが、要するに彼は思考とそうでないもの、あるいは対象とそうでないものがあらかじめ区別されているということだ。その明晰さはどこから来るのだろう。そんな明晰さは存在しないのではないか、これがPongeに対して持った疑問だ。もしかしたらMallarméに対する不快感もこのようなものから来るのかもしれない。物も思考も対象として扱うという態度がはたして本当に「物の味方」となるのだろうか。扱う詩人は物ではないのか。