お返事:

http://d.hatena.ne.jp/lepantoh/20060225#1140853228

あんまり繰り返し同じ方にトラックバックし続けるのはどうなんでしょう。でも一応質問を頂いたので返事しておきます。「自分は対等な対話相手ではない」というのがプラグマティックにどういうことなのかわかりかねるのですが、まあ、もしいやだったらそう告げてください。

まず、力の可視化というものがジャンプの戦闘マンガを特徴づけているのではないかと先のエントリでは書いたのですが、それは(同じことではないと思いますが)これらのマンガが「ルールに条件づけられない力」を提示しているということだと思います。そのため力の可視化の話に至るまでに『剣の舞』を挙げたのでした。『剣の舞』では全く逆にルールに条件づけられない力などない、ということが示されたからです。ジャンプの戦闘マンガでは、強いものはどんな条件においても強い、誰にとっても強いのです。言い換えれば特定のルールを共有していなくてもその強さがわかるわけです。そして多くのジャンプマンガで力の数値化が採用されました。(『ワンピース』でそれが採用されたときはちょっとショックでした。)ここでは数値は特定の条件下における個別的なものではなく、普遍的なものとして捉えられているのです。そしてこのような前提のもとでライトは神になりたいと言い得るのだと思います。ここでは神とはルールに先立つ何者かです。(この場合のルールとはデスノートのそれではありません。おそらくライトが神になるためには、デスノートは占有されていなければならないでしょう。デスノートを占有することによって、神=ライトは自ら誰が悪として裁かれなければならないのかを決定するルールを作ることができます。その意味で神はルールに先立つわけです。)したがってこの文脈でいえば、なぜライトが神になりたいかということが問題なのではなく、なぜ彼が神になりたいと言い得るのかということが問題なのだと思います。

そしてまさにこのことを『剣の舞』は、もっといえば岩明作品は否定したのでした。岩明作品が示し続けているのはむしろ弱さです。「実戦」においては自分の身体能力とか精神力がどうであれ、やられるときはやられるし、やられないときはやられないという、いわば『歎異抄』的な世界観が岩明作品のそれだと思います。そしておそらくもっともそれが端的に示されているのが彼にとって歴史なのでしょう。人の力を超えた何物かによって例えば我々の命が弄ばれたりする、こういったことを彼は描き続けてきたと思います。我田引水的にいえば、このような人智を超えた何物かを残酷と呼ぶこともできるでしょう。こう考えると岩明が『寄生獣』以降作品ごとに示してくる「いかに身体が切れるか」の探求は故なきことではないな、と結構本気で思っています。id:lepantohさんは『七夕の国』をあまり評価なさっていないようですが、この文脈で考えるとこの作品はある程度納得がいくと思います。なぜなら上記の弱さとは、「知り得ない」ということからも導きだせるからです。窓を開けた者が何を見たのか、他の人は知り得ないし、当人も表現できない、まさにこのことによって我々の力ではどうすることもできない何物かが目の前に立ち現れるのです。我々の弱さをもたらす要因は決してなくすことができない。それは『寄生獣』以降ずうっとそうですし、歴史というものはそういう要因を残しつつ進行して行きます。

このような認識は『バガボンド』には欠けています。少なくとも『バガボンド』の武蔵には欠けているように見えます。しかし実際に作中彼がやっていることは『剣の舞』で示された「ルール」→「勝敗」→「強さ」の図式に乗っ取っているだろうと考えました。要は視点が違うだけだと(まあこの視点の違いはきわめて重要なのですが)。プロレスラーに「お前のやっていることはルールのパロディ化だよ」とかいったらぶっ飛ばされると思います。でもやっていることはそういうことです。

最後に、ジャンプ的/非ジャンプ的の話ですが入口と出口の話だといえばわかりやすいでしょうか。『ジョジョ』は先行の作品が提示した問題を(最初からかどうかわかりませんが)背負っていました。つまり能力インフレの問題です。ジャンプの他の作品が共有するような問題を抱えていたという点において入口はジャンプ的であったということができると思います。しかし最終的に提示された解決(出口)は、ジャンプの作品群の中でもきわめて異質なものでした。つまり「力の可視化」の回避であり、「ルールなしの力」からの脱却でした。『ジョジョ』においては「力の可視化」の回避するためにスタンドが発明されましたが、『ハンター×ハンター』はそのスタンドの重要な特徴のひとつである「力の外在化(念)」から出発しました。その意味で入口は非常に非ジャンプ的であったといえると思います。しかしその念自体の体系化を目指すことによって、それが客観化して場合によっては数値化されています。その意味で「力の可視化」を回避することができませんでした。出口は非常にジャンプ的であったと言ったのはそのためです。