強さとルール

先日のエントリに何やら皆さんブックマークやらトラックバックやらして頂いてありがとうございます。何年もはてなやってますが(エントリは少ないけど)こんなことははじめてなのでびっくりしてます。で、id:lepantohさんがトラックバックしてスペースを割いてくださったのでそのお返事をしたいと思います。ちょっと関係ない話から入りますが、たぶん返事になっていると思います。

前回のエントリを書いた直接のきっかけはid:lepantohさんのエントリでしたが、これに関連することは結構前から考えてました。そのはじまりははじめてフランスに留学していた四、五年前のことなんですが、パリのジュンク堂から結構マンガを買っていて、その中で比較的読んでいたものの中に『バガボンド』と『雪の峠 剣の舞』がありました。それと全然マンガと関係ないんですが、確か2000年に小川と橋本のあの戦いがあったと思いますが、その関係でプロレスとか全然知らない(し海外にいたので見られない)にもかかわらず、ネットでUFOとかのことについていろいろ読んでました。そこら辺についていろいろ考えていたことが今回のエントリの元になってます。
一言でいうと「ルール」と「勝ち負け」と「強さ」についてです。
その頃たしか『バガボンド』は武蔵が胤舜に負けたあたりでしょうか。そして武蔵は「これは負けではない、勝ちの途中だ」的なことをのたまうわけです。正直何だそりゃと思いました。そんなのてめえのさじ加減ひとつじゃねえかと。ちょっと興ざめするわけです。そしてその頃(だったと思いますが)岩明の『剣の舞』を読んだわけです。竹刀を弟子の疋田文五郎に差し出してこれからこれで稽古しろと言い、文五郎に「それじゃあ実戦に役に立たないじゃないですか」的なことを言われる。それに対して「では実戦とはなんだ」と上泉伊勢守は問うわけです。おそらくこの『剣の舞』全体をこの問いが覆っている。要はいくら剣の道を究めたって、矢とか鉄砲とかが飛んできたらどうしようもないでしょということだ(鉄砲は飛ばないか…)。これを読んだときに勝手にこの『剣の舞』は『バガボンド』に対するある種の反論だと思った。つまりいくら強さを求めたって、たかがしれてるし、何の役にも立たんでしょということだ。だったら純粋にゲームとして楽しみましょうと。この場合のゲームとは、勝ち負けの基準となるルールを適当に自分たちで決めてしまおうということだ。この『剣の舞』を読んだとき、これって『バガボンド』の中で武蔵がやってることじゃんとか思った。自分んで勝手にルールを作って、誰が見ても負けてるのに「勝ちの途中」とか抜かしている、と。
当時これらのマンガを読んで、上記の武蔵の態度を「猪木イズム」と呼んでいました。実はプロレスについても猪木についても何も知らないのですが、何となくそう名付けていました。自分のプロレスの(おそらく間違った)理解は次のようなものです。勝敗の基準となるルールは絶対的なものではない、審判がつねに中立の者であるとは限らない。したがってレスラー自身がルールの担い手として振る舞うことができる。ルールに不満があるとき、例えばオリンピック競技のように第三者の審判をあおぐ必要はない。自分がこのルールはおかしいと宣言すればいいのだ。だから対戦者同士で異なるルールをもちながら対戦することはもちろんあり得る。その意味でプロレスとは元来異種格闘技戦だ。言い換えればアリ対猪木戦は異種格闘技戦ではなく、完全なるプロレスだ。
一言でいえば、プロレスが行っているのはルールのパロディ化である。そしてこのパロディ化は敗北を敗北と見なすのではなく「勝ちの途中」とするのであるが、この過程で重要な役割を果たすのが遺恨である。この遺恨によってひとつの試合は勝ちへと向かう大きな物語の一部に組み込まれてゆく。これがまさに『バガボンド』の中で武蔵がやったことであり、そしてこのようなプロレスなるものを最強と見なしたのが(僕が勝手に考える)猪木イズムなのだ。この意味ではプロレスが最強であるのは論理的に正しい。なぜなら(たぶん)プロレスだけがあらゆる格闘技でルールのパロディ化を事実上認めているからだ。このことは逆に勝敗、そして強さが絶対的にルールに依存しているということを示している。したがってこの意味でバーリトゥードというものは(それがルールなしを意味しているならば)あり得ない。
それに対して『剣の舞』が示したのは、そもそもどんなルールにせよ、それが適用できる範囲はきわめて限定的であるということである。「実戦」なるものはこのルールの外に広がる、個人ではどうしようもないある出来事である。後に述べるが、岩明がここで示した実戦というものについての考え方は、『ハンター×ハンター』のそれとある一点を除いて重なり合う。で、まさにそのある一点においてこの作品がかろうじてジャンプ的たり得ているのであるが。


ところで最近高橋ヒロシの『キューピー』と『WORST』を読んだ。両方ともものすごく倫理的な話のように見えた。上記の意味でのルールを守る者と守らない者の物語といっていい。この場合のルールとは、いろいろあるのだが、一番重要なのは『キューピー』の上田秀虎の言葉を借りれば、「クソのようなケンカ」とそうでないケンカを分けるルールだ。「クソのようなケンカをするやつはクソのようなやつになってしまう。だからケンカするにしてもそうでないケンカをしろ」要はこういうことだ。何がクソで何がクソでないか、これは例えば不良高校生たち(「バカタレども」)とヤクザではその基準が違うだろう。でも両者とも固有のルールをもっているという点では変わらない。もう一人の主人公ともいえる我妻涼は結果的には後者の世界に身を投じるのであるが、それは前者の立場から見ればクソのようなやつになってしまったかのように見える。しかしそれは正しくなく、クソかそうでないかを決めるルールが変わっただけで、クソになってしまったわけではない。「オレはひねくれて、グレてこの世界にいるんじゃない」と涼がいうとき、示しているのはそのようなことだ。ある規範から違う規範への移行したのだ。
『WORST』も同様にルールに関する物語といっていい。果たして実際の不良高校生たちがこんなに倫理的であるかどうか知る由もないが、まあ高橋作品ではそうなのである。この作品で興味深いのは、当たり前なのだが、みんなけんかっ早いということだ。けんかっ早いとは、相手が強いとか弱いとか関係ないということである。キルアと比較しよう。彼は最初、自分の手に負えなそうな強いやつとは決して戦わなかった。しかしあたまの針を抜いたあとは、強いやつにでも立ち向かうだろう。高橋作品における「バカタレども」はそうではない。そもそもケンカしないと強いか弱いかわからない。もちろん評判とか噂とかはあるから、全くわからないわけではないだろうが、そういうこととは関係なしに彼らはけんかっ早いのである。つまりこういうことだ。「ルール」があって、「勝ち負け(戦い)」があってはじめて「強さ」というものがわかる。あたりまえのようだがこの順序はきわめて重要だ。


実はジャンプ作品における戦闘マンガはこの順序に則っていない。ジャンプ的戦闘マンガを特徴づけているのは努力・友情でも能力インフレでもない。ルール、戦闘、強さの順序の転倒だ(今思い出したのだが森田まさのり作品はどうなのだろう。読んでないのでこのことが適用できるかわからない。とりあえず森田作品は措いておく、というか森田作品は戦闘マンガに分類されないか、まあよい)。言い換えれば強さの可視化がジャンプ的戦闘マンガを特徴づけている。かなり遠回りしましたが、id:lepantohさんの話に戻りそうです。
一言でいえばジャンプ的戦闘マンガは戦う前から強さがわかるということだ。『キン肉マン』『ドラゴンボール』『ワンピース』『ハンター×ハンター』これらすべての作品において個々人の強さはなぜか事前にわかってしまう。前述したキルアについても、戦う前に強さがわからなければ意味がない。おそらく唯一の例外が『ジョジョ』だと思う。前のエントリに書いたように、登場人物と能力が切り離されることによって、そしてスタンドの能力が極度に専門化していることによってその強さを共通の尺度ではかることはできない。明らかにこれは能力インフレというジャンプ的な問題を解決するためのものである、という意味で『ジョジョ』は非常にジャンプ的な作品であるが、そもそも「強さ」というものが戦闘とは別に独立してあるのではなく、事実としてあるという点においてきわめて非ジャンプ的な作品でもある。それに対して『ハンター×ハンター』は各登場人物から切り離された念のシステムの記述を全景化することで物語が線状に展開しない(このことによって例えば『キン肉マン』において能力インフレが起こる)、という点において非常に非ジャンプ的であるが、念を登場人物から切り離してしまったことによってそのシステムそのものが客観化してしまい、強さも可視化してしまったという点においてきわめてジャンプ的な作品だ。


やっとid:lepantohさんへの返答です。id:lepantohさんのおっしゃる「僕は何か」的な問題はまさにこの強さの可視化にかかわっていると思います。「海賊王」は強いんです。「火影」は強いんです。アプリオリに。最初に『バガボンド』と『剣の舞』を読み比べたときに考えた強さとは、「実戦」という一人の人間にはどうしようもない大きなスクリーン=出来事にルールという光を投射したときにできる映像のようなものです。そしてこの投射という行為がまさに戦闘になるんです。その意味で戦闘しなければ強さなどわかりはしない。そして戦闘するためには光であるところのルールがなければならない。おそらくルフィもナルトも強さを目指していると思いますが、それは武蔵が目指している強さと同じものかは検討に値するでしょう。少なくとも武蔵は強くなるための戦闘の必要性、そして勝つためのルールのパロディ化の必要性を知っているからです。しかしジャンプ的な登場人物が目指す強さとは可視化、客観化できる強さなのではないでしょうか。この疑問が、id:lepantohさんの「僕は何か」という問いに対する批判と結びついているのではないでしょうか。
あと、ナルトに関してはもうひとつ別の側面があって、強さとかそういうこと関係なしに、実存的に引き裂かれた中で、ある特定の役割に固執してそれを目指すということによってかろうじてそういう状況を生きていけるということがあると思います。そもそも忍びの世界というのが大きな共同体であって、その共同体のひとつの役割を演じることによっていわば実存的な困難さを生きることができるという主人公を描くというのはこのマンガのひとつの大きなテーマになっているのではないでしょうか。要は自分は火影になることでしかこの世界で生きていけないのだ、といったようなある種の悲壮感は描かれていると思います。そのことはもう既に十分強いこととは別にあるでしょう。