カイジと社会

論文進まん。

ということで天とかアカギとかカイジとか読んでしまった。カイジの最初のところで限定ジャンケンが始まるわけだが、それを説明した利根川とかいうやつに参加者がいろいろ質問しようとするシーンがある。だけど利根川はそれに答えず、参加者のブーイングを呼ぶ。すると利根川は「ガキどもが」的なことを言って、「大人は質問には答えないんだよ」とかいう。

そうだな、とか思った。普通は答えてくれない。パソコンが壊れたときカスタマーセンターとかに電話するがそこで答えてくれるのは(まともな答えはないが)ただ単にそれが仕事だからだ。普通人には応答責任(responsability)はない。それだと社会が成り立たないので社会を維持しようとするものは応答責任を押し付ける。つまり労働を強いる。労働とは応答責任の押しつけで、もともと人に応答責任がなければ、その押しつけはきわめて非人間的なものであるかもしれない。

最近のフランスのデモはここら辺と関連しているのかなとか思った。二年間(シラクの演説によれば短縮されるらしいが)雇用する側が自由に首を切れるということは雇用される側は雇用する側の応答責任の押し付けに抗えないということになる。つまり質問に答えない権利を奪われるということだ。利根川的にいえば総ガキども化だ。

こちらにしばらくすんでまだそんなに強く感じないが、よくフランス人は働かず、例えば役所の窓口なんか非常にやな感じだということはクリシェのようにいわれている(個人的にはそんなのは日本も大してかわらないと思う。日本でもまともに働かないやつ多いと思う。自分も含めて)。これはいわば生存し(金を稼ぎ)、かつ人間的であろうとする(応答責任の押し付けに抗う)ための手段なのではないかと思った。もしかしたらこれに対応する日本の現象が言説としての(というのは実際にはどうだか知らんからだが)ニートとかの労働からの撤退なのではないだろうか。この文脈からするとニートたたきというのはたぶん応答責任を押し付けられた者(そしてそれに抗うことのできない者)が抗う者に対してお前も非人間的になれと言っているようなものなのだな。非人間的であることはたぶん負けだ。だから働いたら負けなのだろう。日本だと「働いたら負け」かもしれないがフランスでは働いても負けにならない。なぜなら生存するかしないかということと人間的であるかないかということは全く別のことだからだ。(でもサービスを受けるものとしていえば負けでも非人間的でもいいからちゃんと仕事をしてほしいのだが。)その意味で働いても負けにならない制度を今の学生たちは獲得しようとしているのかもしれない。

ほんまかいな。