夏休み明けには博論の一章目を出しますとか教授にいっておきながら、まだ一文字たりとも書いていない。たぶんヤバい。というわけでいまのところまとまった話を。


一章の三分の一から四分の一ぐらいをArtaudとBretonの作品の比較をしようかなと思っている。具体的にはL'art et la mortおよびUccelloに関するいくつかのテクストとBretonのL'amour fouNadjaVases communicantsとの比較。でまあその比較の前にArtaudとシュルレアリスムとの関係についてちょっと。Artaudとシュルレアリストたちは二十年代後半からもめだすのだが、決定的に決別したのは1928年六月上旬だといわれている。で、その前にいくつかシュルレアリスムをくさす文章を書いているのだが、そこでいっているのは、シュルレアリスムとは本来内面性をいかに解放するかを問う運動だったはずだ、それが今やその内面性を無視し革命を思考しようとしている、しかし革命こそ内的なものであり、個人的なものであるはずだ、ということである。要はシュルレアリスム(というかBreton)のマルクス主義への傾倒を問題にしているのだ。


この時期Artaudは緊急に治療しなければならない病を抱えていた。頭からうなじにかけての激痛が間断なく続き、そのおかげで(とかれは言っている)感覚と言語表現の間にある種のずれがおこった。「寒い」というのをフランス語ではil fait froidというが、彼が感じる寒いという感覚がこの三語と一致しなくなってしまったのだ。もちろん通常人は感覚と文字が一致すると思っているわけではない。そうではなく、そのようなことを考える必要がないのだ。寒いときにil fait froidというのはいわば決まっていることで、例えばNodierのようにfroidという語に含まれる音素が寒さを示していると考える必要は全くない。我々は言語表現における感覚に対する忠実さを鑑みることなく言語表現を使用できる。それをArtaudは自動性(Automatisme)と呼ぶ。この概念は例えばJanetあるいはそれ以前の心理学において使われてきた概念をはまったくちがうし(というか反対)、ましてシュルレアリストたちのそれとも全く関係ない。したがってArtaudの病において最も重要なのは、この自動性が失われてしまったということである。


するとどういうことが起こるか。言語表現が行えなくなるということでは全くない。我々もそうだし、Artaud自身も寒いと感じようが感じまいが「寒い」ということはできる。実際彼はこの間多くの著作を残しているし、演劇活動もしている。そうではなく、言語表現を行ったときにそれが表現すべき感覚や意識があると感じられなくなってしまったのだ。これを彼は内面の喪失という言葉で示していた。で、この内面性を再び見出すのがシュルレアリスムの目的だったはずだった、少なくとも彼にとっては。一方言語とは彼にとってつねに外的なものであり、社会が彼にとってそうであるように言語も、彼が失われた内部(彼の言葉に倣えば「随」)を再び見出すためには不必要なものであるばかりか邪魔なものである。その意味で社会の変革を思考する革命は彼にとっては本来の革命ではない。革命が個人的であると主張するのはこのような意味においてである。


しかしこれはBretonにとっては誤解も甚だしいものだった。彼にとってはシュルレアリスムとはそんなことを目指すものではない。というのは、Bretonにとって自我とは意識(あるいは無意識)である内部と社会である外部の間にまたがる存在であるからである。いってみればArtaud的な自動性は自明のものである。このような自我のありようがL'amour fouNadjaのような自伝的な作品(=自伝契約)を、そしてVases communicantsにおける(Anzieuがいう意味での)自己分析を可能にするのだと思う。ここら辺の話はまだ完全にはまとまってないが。