生まれて初めての入院を前にして眠れない。

 ということで手術前の不安の中でちょっと考えたこと。


 多分有名なんだろうが、ニコニコ動画で「すごいぜjasrac伝説」ってどうがあって、そこで大槻ケンヂが自分の書いた歌詞をエッセイだかなんだかで引用したらジャスラックから指導を受けた的なことがいわれていた。


 音楽著作権については全く知らないのだが、受動的に見聞きした話だと、確か多くの市場に流通している楽曲は、その著作権ジャスラックが管理してるのだが、その管理している、という意味は、著作者からジャスラック著作権を移行させている、ということらしい。つまり日本では音楽著作権は著作者にあるのではなくて、ジャスラックにあると。確か高橋健太郎がいっていたと思う。そうなると大槻ケンヂの件は、しょうがないのかなということになろう。著作権者は彼自身じゃないのだから。


 まあ楽曲についてはこの際おいておいて、歌詞についてはこれはどうなのだろうか。たとえばLéo FerréはかつてBaudelaireのLes fleurs du malに収録されたいくつかの詩に曲をつけて歌ったことがあり、その録音があると思うが、こういう曲も日本に輸入されればジャスラックが管理するということになろう。もちろんBaudelaireの詩には著作権はもうないだろうから問題ないだろうが、たとえばFrancis PongeとかYves Bonnefoyとかの詩に曲をつけて録音して日本で発売したら、どうなるのだろうか。そのあと誰かが彼らの研究書を出した時は、マンガにあるように巻末に「著作権番号なんとか」ってのをつけなければいけないのだろうか。規則上どうなっているのかわからないが、さすがにこれはないのではないだろうか。文学研究をしているものとしてはこれはちょっとやってられない。というか、Artaudのラジオ録音とかも実はその著作権ジャスラックとかが管理しているのだろうか。一応現代音楽とかの棚にあるのだが。で、この応用として考えられないだろうか。つまり、すべての作詞家は詩人を名乗ればいいのではないか。前もって出版物としてでもネット上での何でもその詩を詩人として発表する。で、楽曲にするときにはその詩人の詩に曲をつけたという体裁をとる。もし全く同じ歌詞でダメならちょっと変えてもいいけど。あるいは全く同じ歌詞で、確認の意味で裁判をやってみるといいのかもしれない。松本隆あたりがそういう感じでやってみるといいと思うのだが。というわけで、すべての作詞家は詩人たれ、と。ダメかな…。でも本業の詩人の人にしてみたら、楽曲になった瞬間に著作権を放棄しなければいけないというのはちょっとおかしいような気がするがどうなんだろう。


 実際問題、海外に出るにあたって、日本で持っていたCDをiTunesとかに入れるわけだが、それを海外で聞くにあたって、歌詞などをインターネットで探すことが多い。その際英語やフランス語の歌詞については楽に見つけられるのだが、日本語のものについてはほとんど見つからないか、見つかったとしてもコピペできなかったりして非常に不便なことが多い。これはどう見ても不自然だ。僕はネット環境の問題でiMSってのを利用することができないので、実際はどうかわからないが、歌詞もいっしょにダウンロードできないのであれば、なんか楽しさ半減って感じがしてやだ。でもiTunesに歌詞を書く欄があるのでいっしょについてくるのかな。