Viva la musica !

id:kasuhoさんのところで、エチオピアの音楽のCDのレヴューを書いてくれとリクエストがきたので、ちょっとお応えしようと思うが、その前にワールドミュージックについて、昔考えたことなど。
今は全くCDを買うことがないので、どうなっているか知らないが、CD屋で「ワールドミュージック」というコーナーがあったとしたら、それは特定のジャンルというより「その他の音楽」といった意味合いだろう。そう考えることはある意味で正しいのだが、ある意味で間違っている。正しいというのは、「ワールドミュージック」という名である特定の音楽を想像することはあるが、それらを指し示しているわけではないということ。まあ大雑把にいえば当たり前だ。
そして間違っているというのは、歴史的なその言説の成立を考えると、聴く対象を規定するのではなくて、聴く態度を規定するものとして「ワールドミュージック」という概念が出てきたからである。あたしは基本的に音楽批評というものは新たな聴き方を呈示すべきものだと思っているが、おそらく中村とうようあたりは、ワールドミュージックということによってその新たな聴き方を呈示しようとしたのだと思う。それ以前はおそらく違う聴き方をしていたのだ。
たとえば、インド古典について。聞くところによると、音楽を構成するターラとラーガは、特定の演奏環境を要請し、たとえば朝しか演奏できない曲があるとか、特定の日にしか演奏できない曲とかがある。したがって本来ならばある曲が聴きたいとき、特定の場所、特定の時間に居合わせなければならない。ここから小泉文夫的な「いい音楽を聴きたければ馬に乗れ」的な考えが出てくる。音楽は特定の時間や空間に縛り付けられていた。
もうひとつ。たとえばタンゴやフラメンコの愛聴者はおそらく昔から日本にいた。Carlos GardelやNiña de los peinesとかは結構知られていただろう。しかしそういう人たちはそれらの音楽で充足していて、ほかの音楽などへの拡がりに目を向けない。
たぶん中村とうようなんかは、このような聴き方を変えてゆこうとしたのだと思う。音楽はある土地やある時代に結びついて離れないものではなく、もっと自由なものであると(長谷川きよしのサンバ)。またひとつの文脈に縛られているのではなく、つねにその文脈の外部との関連をもち続けている(たとえばRy Cooderカリプソ)。だから「ワールドミュージックを聴く」のではなく、「ワールドミュージック的な視点(?)で聴く」のだ。ロックやジャズを聴いている人は単一の文脈で聴いてしまいがちだ。それに対してある種の多様性を示そうとするのがワールドミュージックを喧伝する人たちの狙いであったように思う。
要するに「ワールドミュージック」の名のもとで全ての音楽を聴こうということだ。するとひとつ問題が起こる。たとえばCartolaをいくら聴いていても決してElvy Sukaeshiに辿り着かない。当たり前だが。だから一人で聴いていると限界にぶつかるわけだが、そういうときある種の教養主義は役に立つ。知り合いでそういう人がいて、「えー、こんなのも聴いてないの?」と連発する人がいて、次第に音楽の話をしづらくなったのだが、おかげで結構視野は広がったと思う。しかしそのときの「教養」というのは、結局は目指されていた多様性とは程遠いものである。聴く文脈の多様性を「ワールドミュージック」は目指していたはずだ。しかし実は、ロックやジャズに対して単なる後発優位性でメタレヴェルに立っただけで、新たな聴き方を呈示するに至ってはいなかったように思える。たぶん試みは失敗したんだろう。今や「ワールドミュージック」とは「その他」だ。