Pierre BRUNO, Antonin Artaud. réalité et poésie, L'Harmattan, 1999

最も注目したのが最初の方の思考の不能性についての議論。Artaudにとって思考とは形而上学的な分析でもある種の信仰でもない。それは外的対象を指示し言うというひとつの機能だ。だから思考が不可能であるということは外的対象を捉えることができないということでもある。しかしそれだけではない。というのはそれをとらえるのは言葉によってでしかないからだ(だから「指示し言う」ことなのだ)。だとすれば、いかなる意味においても「わたしの思考は不可能だ」と言うことはできないはずだ。わたしの思考は不可能ならば、なぜわたしの思考は不可能だということができるのか。この問題はArtaudにとって最大級に重要なことであったように思う。この問いにどういう解決を与えるかということに生涯を費やしたともいえるのではないかと思っている。
Brunoによれば、思考は上流にあり、言葉を見つけるということは下流でのことがらである。そこからあの有名な言葉が出てくるらしいのだが(Toute écriture est de la cochonnerie)だとすれば、思考の不可能性を言葉でいうことはできないはずではないのか。上流に水がないのに下流に水は流れない。外的対象を指し示すことがある種の病理だとしても、そのことを言葉で言えないということは病理というより単なる矛盾だ。すると次に考えられることは、Artaud自身がこのことを意識していたか、あるいはそれを意識する必要がなかったかということだ。ここら辺についてはちょっと考え中なのだが、いずれにしても、思考がもし言葉と必然的な結びつきを持つならば、思考の不可能性を端的に指示することはできないはずで、その点をおそらくBrunoは看過しているのではないか。もちろんBlanchotのように思考の不可能性をいうこともできるのだが。つまりわれわれは思考の不可能性を指示しているのではなくそれを生きているのだと。しかしそれは各論にはいるとちょっと厳しい。

飽きたので続きはまたあとで書こう。