こっちに来てから二ヶ月半になるが、文学関係の本ってまだ一度も読んでない。来る日も来る日もおかしくなった人の報告とかを読んでいるとこっちもおかしくなってしまう…ということはまあないのだが、でもいい加減辟易してくる。論文執筆というのはどういう場合でも孤独なものだろうが、果たして自分のやっていることがある程度でも妥当性をもつものなのだろうかとちょっと不安になってくる。まあ、よい。
 それはともかくこういう本を読んでいると、Artaudというのは心理学者として読むことのできる作家なのではないだろうかという気がちょっとだけしてくる。もちろんいまいう意味での心理学者ではないが。初期に彼が詩に何らかの可能性を見出したのもそれとの関係で理解できるような気がしてきた。
 要は自己分析ができるかどうかということだと思う。いうまでもなく自分で自分のことを狂っているとかそうでないとかいってもそれは他人がそういうのとは意味が違う。端的にいえば狂っている人のいってることをまともに受け取ってもしょうがない、だからこそ心理学者がそれを解釈、あるいは弁護しなければならないということだろう。ちょっと驚いたのだが1880年代に書かれたAzamという人の多重人格(っぽいもの)を扱った本では、後半になっていきなりそういう人たちの法的な責任能力の問題を扱いだす。(こういうのを見るとTardeの心理学的社会学とか犯罪学っていま考えるよりもずっと強く結びついていたのだなと思う。)自分でも自分のいっていることがわからないのだから、何をやってもその人に責任を押し付けるのはおかしい、と。こうすることでいってみれば心理学者は病人自身と彼あるいは彼女が発する言葉を切り離すことに腐心してきたように思える。そうすると自己分析なんて原理的にあり得ない。(Ribotとかによればそれができそうかなあとかちょっと思ったが、どうやら無理っぽい。)そしてフランスでは例えばBlondelあたりが意識の病はそれを取り巻く社会的な環境に依存するとか言い出すと、意識がもつ社会的な関係性(Blondelによればそれは言語だ)自体が問題になるので、なおさら自己分析なんて不可能になる。

 だからじゃないだろうか。だからArtaudはRivièreとの往復書簡の中で「散文であれ韻文であれ思考し続けることができるか、ということだけが自分にとって問題だ」とかいうのではないだろうか。つまり彼が詩とか文学とかに何らかの可能性を見出していたとしたら、それは自己分析の可能性なのではないだろうか。そして晩年になるとその自己分析そのものを社会的に外から阻む力みたいなものを感じ、それを非難しだすのではないだろうか。というわけでAnzieuを読まなければいけないのだが、長くてちょっと読む気になれん。年内には読もう。