戦闘マンガについて

たぶんこっちに来て最大の危機だと思う。何もやる気がしない。今バカンス中ということもあって、寮に誰もおらず、嵐のような陽気だったこともあって完全に引きこもって何もしていない。そんななかid:lepantohさんの「ワンピナルトデスノハンタの対照表」をみて面白かったのでこちらも何か思うところを書いてみる。でもid:lepantohさんと比べてマンガを読んでなさすぎるので教養の差が出てしまうのがはずかしいのですが。

ジャンプ系/非ジャンプを問わず、謎の戦闘を繰り返すマンガを読むときには、非常に単純な表を頭に思い描いていて、その表とは、一方の軸に善悪があり、他方の軸は「真実」を知っているか知っていないかの区別になる。この四象限のうち、真実を知らず悪いもののカテゴリーには雑魚キャラが入る。まあ『北斗の拳』のジャギみたいなキャラだ。そしてだいたいのボスキャラは真実を知り勝つ悪いものだ。逆に言えばどんなに強くとも真実を知らなければボスキャラ足り得ない。そして主人公は善き者なのだが最初は真実を知らない。しかし物語が進むにつれ真実を知るようになる。言い換えれば最初は真実を知らない善き者が徐々に真実を知るようになる、これが物語だ。あんまり関係ないのだが、真実を知らずに善き者であるというキャラは非常にまれだと思う。数少ない例はジャンプではないけど『スプリガン』のボー・ブランシェ(綴りあやふや)ではないだろうか。ちなみに皆川のマンガでいうと『ARMS』ではこの象限に属するキャラはいなくなってしまったと思う。コー・カルナギはちょっと違う。
ではこの「真実」とは何か。ここに何を入れるかで物語のタイプというものが決まってくるのだと思う。それはある組織、もっといえば世界の謎(皆川作品)でもいいし、倫理的な価値(ジャンプにおける友情とか)でもいい。しかしエヴァ以降、この真実を求める有力な問いが出現したと思う。それは「私は何者か」というものである。事実この種のテーマの戦闘マンガって多いと思う。前述の『ARMS』もそうだし、『なるたる』や(全部読んでないけど)『鋼』もそうだろう。BONESものも結構こういうタイプのものが多いのではないだろうか。これらのマンガの大きな特徴は、戦ってる本人が何で戦ってるかもわからないということだ。もっといえば戦う根拠と自らの実存が不可分だということだと思う。要は自分がいるから争いが起こるということだ。これらのマンガにおいてはid:lepantohさんのいう他者による自己の肯定が不可欠になる。なぜなら私は何者かという問いは、誰かが例えばあなたが何者でもかまわないと言わない限り解決することがないからだ。その意味で『なるたる』なんか最悪の結末を迎えるわけだが。
こういうタイプはおそらくジャンプから最も遠いものだと思う。まああんまりよく読んでないからでかいこと言えませんが、ジャンプのマンガでなぜ自分は戦うのかという問いが発せられたことってほとんどないのではないでしょうか。ついでに実存的な問いというのもほとんどなかったと思う。キン肉マンにしても孫悟空にしても、また『封神演技』の太公望にしても自分は何者かということを知ったときにほとんど苦悩とか葛藤を見せることはなかった(キン肉マンは戸惑ったかもしれないけど)。その意味で一般にジャンプ作品は他者による自己の肯定の問題から免れることになる。
そしてこのタイプの実存を問うようなマンガの対極にあるのが『ハンター×ハンター』だと思う。問題なのはもはや個人の実存ではなく戦闘そのものを支える「念」というシステムの記述だ。これまでのジャンプマンガでは手から爆弾を爆発できる能力を持つ者が出現したとき、「なぜ手は爆発しないのか」という問いは出てこないでしょう。このマンガでは自分が何者かということよりもこういうことの方が重要なのだ。で、このシステムの記述というものを戦闘から切り離したときに『デスノート』が生まれる。そしてこれらの作品をid:lepantohさんは「不健全」と形容しているわけだが、それはその通りだと思う。というのは、システムの記述は実存的な問いとは対極にあり、倫理的なものは(少なくともエヴァ以降は)おそらく後者の問いの果てにある。健全さに配慮するとシステムを十全に記述できないからだ。『ハンター×ハンター』において主人公のゴンが内的葛藤をもたないこと、『デスノート』においてライトが目的達成(そのためにはデスノートの何たるかを知り抜いていなければならない)のために手段を選ばないことはその意味でシステムの記述のために不可欠な要素である。

思うに、あらゆる戦闘マンガは実存的な問いにかかわるものをひとつの極に、そしてシステムの記述をもう一方の極に据えた線上のどこかに位置づけられるのではないだろうか。『なるたる』とかが前者の極に、そして『ハンター×ハンター』が後者の極に位置づけられるだろうが本来それらは例外的だと思う。例えばナルトも一護も自分は何者なのかという問いに苦しむことになるが、それでも彼らは戦うことをやめることはないだろう。それには二つの理由があると思う。まず、自分が戦うことをやめたとしても敵の攻撃は止まないというのが第一の理由だ。つまり緊急に戦わなければならないのだ。この「緊急に」ということが重要で、次から次へと敵がやってくる、そしてどんどん強い敵がやってくる、よってどんどん戦って強くならなければならない。こうしてジャンプ的な成長の物語が進む。そして能力のインフレが進む。ここでは緊急性(戦闘の必然性)と能力(強さ)が不可分な関係にある。だから戦えば戦うほど強くなる。おそらくこの結びつきをはじめて切り離したのが『ジョジョ』だと思う。例のスタンドだ。まあ戦うのは主にスタンドなので当然と言えば当然かもしれないが。この特徴は能力が登場人物に対して外在化していて、それぞれのスタンドの強さを測る共通の尺度はないということだ(どれが便利とかはあるが)。『ハンター×ハンター』は明らかにこの延長線上にある。念という形で能力が外在化されているのだ。『ジョジョ』では緊急性は高いが別にたくさん戦っても能力の極端な向上はないという形だったが、『ハンター×ハンター』では緊急性そのものが低い。「緊急性が低い」というのは間違ってはいないのだが、さらに付け加えると、強くなくても勝てたり(対ゲンスルー)、戦わなくてもその場を切り抜けられたり(対旅団)する。(まさに岩明均の『剣の舞』において上泉信綱の問う「実戦」だ)ただし『ジョジョ』と違い念をシステムとして記述する場合は共通の尺度が必要にならざるを得ないので、その点において能力インフレって起こってしまっているのだが。円の大きさとか。
第二の理由は、ナルトにしても一護にしても自分は何者だという点については悩むが、敵が敵であることについては自明であるという点だ。戦うことの意義について言えば、したがって緊急性と敵の自明性がそれを支えている。しかし『ハンター×ハンター』においては敵が敵であることは自明ではない。何しろキメラアントの親玉自身が「自分は何者か」とか自問しているぐらいだから。その意味ではid:lepantohさんは敵対者についてワンピナルトハンタを並べているが、少なくとも『ハンター×ハンター』については敵対者というものがほかの作品のそれと比べて意味が異なると思う。また主人公の裏表ということは、『ハンター×ハンター』については言えないと思う。主人公のゴンがゼパイルの言葉をかりれば「善悪に頓着せず」「危うい」ことがこの作品の必然であるからだ。むしろ周りの登場人物がゴンの裏表のなさを通じて自ら内省するのだ(キルアとか)。

眠くなってきたのでもう寝る。(午後一時)