Yves BONNEFOY, Poèmes, poésie/gallimard, 1982
Jean-Pierre RICHARD, Onze études sur la poésie moderne, seuil, 1964

なんかBonnefoyの専門家に会うということになったので急遽付け焼き刃的に。家にあったRichardの本もついでに読んだ。でも全然読んでいく必要はなかった。というかほとんど喋る機会はなかった。まあ、そんなもんだろう。とはいえ、かなりためになった。自分の考えていることが結構詩的な問題なのだなあとか思ったりした。

この本を読むかぎり、Bonnefoyという人は詩人というより概念を作り上げ練り上げてゆく哲学者のような気がした。まあそれが石だったり木だったりするのだが。序文を書いたStarobinskiによれば彼はBachelardの授業を受けていたそうだが、明らかにBachelardの背負った課題を引き受けているところがある。Bachelardは執拗にBergsonの持続を批判していたが、それに対して瞬間という概念をRoupnelに依拠しながら提出したが、初期のBonnefoyはこの対立を受け入れている。世界は運動によってのみ構成されているのではなく、いたるところに不動性がある。石とか木を見て見ろ、という具合だ。世界が持続の連続性ではなく瞬間の非連続性によって成り立っているとすれば、そこには「時間の裂け目」というものがあるはずで、Bonnefoyによればそれは死である。瞬間の非連続性は連続性を前提にしているのではないので、時間の裂け目は時間の流れの中でのある出来事ではない。石や大地がつねにそこにあるように、死も同様につねにそこにある。実際、石とか大地とか木は、Bonnefoyにとって死を喚起するものでもある。しかし死を前にして詩の主人公はどうしようもなさを感じる。詩とは常にそこにありながら、絶望的に到達不可能な何かとして描かれている。この本に収められている最初のふたつの詩集ではだいたいこんなことをいっているんだと思う。

これが三つ目の詩集、「Hier regnant désert」ではちょっと様子が違ってくる。詩は常にそこに「ある」ものではなく、常にそこに「あった」ものとして描かれる。石や木はDescartesがいうように瞬間瞬間に作られたものではなく、そこにあったものである。死への到達不可能性というもの、瞬間の両義性というものが描かれることがなくなっている。われわれの世界を支配しているのはもはや今であるところの瞬間ではなく、表題にあるように昨日Hierだからだ。彼にとって石とは、過去の出来事が刻まれるひとつの場としてあるのだろう。しかしそれはProustにおいて名前がそうであったように、Alquiéがいうところの「永遠(へ)の欲望」を示すものではない。むしろ彼は永遠(不死)というものが何によって根拠づけられているかという問いと格闘していたように思える。