Jean PAULHAN, Essai d'introduction au projet d'une métrique universelle, Le nouveau commerce, 1984

やっぱりPaulhanは素晴らしい。でも彼の本を読むと文学なんて本当にどうでもいいなと思ってくる。いや、読む前から思っていたが。しかしこのタイトルはなんなのだろう。métriqueというので詩法とか韻律の話かと思いきや、予想と全く違った。むしろ以前読んだEntretien sur des faits diversに関連する話だった。言葉の指示には三つの次元がある。物と、観念、そして言葉そのものだ。そして、これは上のRiffaterreの議論と関連するのだが、たとえばtrôneという語は、王が座る椅子という意味をもち、同時に、王の地位という意味をもつ。社長の椅子、みたいなものだ。またbureauという語には、机という意味もあれば、机がある部屋(書斎)という意味もあり、机のある部屋がある組織(会社)という意味もある。このことはEntretien sur des faits diversの冒頭でいっていたillusion de la totalitéと直接に関連する。この幻想は、たとえばフランスに初めてやってきたイギリス人が、初めて見たフランス人が赤毛だったとき、全てのフランス人が赤毛であると思ってしまうような幻想だ。これは全く言語の問題であって、言語自体に、言葉と物と観念、そして部分と全体の混同があらかじめ含まれているのだ。でははたしてわれわれはこの混同を避けようとしているのか? Paulhanはこのような考えに留保をする。なぜなら多くの詩人や思想家たちが生が死の反対ではないような、内部と外部が対置していないような、自己が他者であるような世界を、つまりあらゆる差異がないTotalitéを夢見ていたからだ。そしてPaulhanにとってこのTotalitéは(彼自身のというよりも詩人たちや思想家たち、そして日常言語を使用するわれわれの)理想というよりも、ひとつの記憶である。そもそもわれわれはそのような世界に生きていたのだ。
もちろんそれで問題があるなら、このillusionを排除することの意義を彼は認めている。最後の註で彼は次のようにいっている。

S'il nous est donné d'assister aux démarches de notre esprit. « Non répondent les philosophes. Nous ne voyons jamais qu'une conscience amputée de la part d'esprit que nous employons à la regarder. »
Soit, mais il existe un moyen de tourner la difficulté. C'est, après examen attentif de cette part, de recomposer une conscience entière. Ensuite viendront les théories et les métriques.

訳:われわれはわれわれ自身の精神の歩みを目にすることが出きるのでしょうか? いや、と哲学者たちは答える。われわれはそれを観察するために使用する精神の一部から切り離された意識しか見ることはできないのです。
そうかもしれない。しかし、その困難を回避する手段はある。それは、この(精神の)一部を仔細に検討し、その後に意識全体を再構成することだ。こうして理論や詩法が求められるのである。

これがこの本のタイトルにつながるのだろうか。ここはちょっと気になる部分であった。というのは、Les fleurs de TarbesでもEntretien sur les faits diversでもそうだったのだが、だいたいが前半でしょうもない誤謬を批判する、そして後半でそれはでもしょうがないよね的なことをいうのだが、そのあとどうするの? 的な疑問がいつも残るのだ。この引用個所は、それに対するある種の回答ではないかと感じた。まだよくわからないが。
あと、詩に関していうと、どこかで読んだのだが、PaulhanはBousquetに詩法を逸脱するのではなく、徹底的に詩法に従ってみろ、といったようなアドヴァイスをしたらしい。そのあとBousquetの詩を読んで、あんまり徹底的に従っている感じがしなかったが、何となくPéguyのある意味徹底的に詩法に従った異常な詩を思いだした。一方で詩法を逸脱する詩があり、他方でこのようなアホみたいに詩法に従う詩があるのかもしれないとか思った。