Michael RIFFATERRE, « L'illusion réféfentielle », Ibid

上のBarthesの論文と一緒に収録されているもの。Barthesのはちょっと要約したが、こちらはあまりする気がしない。言語の物質性に気づいていないという致命的な欠点があるからだ。次のPaulhanの本と比べるとそれがよくわかる。
文学言語と日常言語の違いは、後者は垂直に指示をする、つまりそれぞれがそれぞれの現実に対応しているのであるが、前者はそうではない。いわば斜めに指示をしているのだ。まず指示の枠組みが違う。日常言語においてはその枠組みは所与のものとみなせるが、文学言語においては、各テクストがそのつど与える。このように文学言語の新たな枠組みにおいて与えられる意味を、彼は日常言語のsgnificationに対してsignifianceと呼ぶ。そしてその意味は、大雑把にいって隠喩的と喚喩的がある。要は、文学言語においてそれぞれの言葉は、指示対象を与えるのではなく、ひとつのシステムを与えるのである。そのシステムをどのように通過するかによって意味は多義的になったり両義的になったりする。なんか飽きてきた。