Georges POULET, L'espace proustien, Gallimard, coll. Tel, 1982(『プルースト的空間』)

Pouletのテクストはこれまでつまみ食い的に読んできたことしかないので、これが初めて全部読んだ著作だ。要はProustは失われた時間のみを求めたのではなく、失われた場所をも求めたのだということ、そしてProust的な時間はしばしばBergson的なそれとの類似を指摘されるが、むしろ両者は全く相容れないものであるということ。Pouletは結構好きだ。Richardとかよりもなんか肌にあう。まあそれはともかく、彼の議論はProustにおける地名の問題とかを考えるのにはいいと思う。おそらくPouletによれば、Proustが地名などの名前に見ているのは、永遠とかではなくむしろ現在と過去の同時性、Poulet的に言えば現在と過去の併置なんだろうと思う。まあ結構古い本なので、この議論が今通用するのかわからないが、この観点からするとAlquiéはProustとBergsonを結びつけすぎたと言えるかもしれない。
 しかし、いずれにしてもBeckettの言う*1、Proustの登場人物は時間の犠牲者であるという前提はPouletもAlquiéも共有していると思う。確かにこの前提はProustを読んでいて感じるものではあるが、これが全く理解できない。いや、Beckettの言っていることが理解できないのではなく、なぜ人が時間と対峙しうるのかということが理解できない。時間とは人が対峙する対象ではなくて、単に生存の結果ではないのか。いずれにせよProust自身がBeckettの言うように考えていたということはあり得る。というか間違いないと思う。さっき書いた教授の言葉もまさにこの前提を共有しているという点で適切だったのかもしれない。なぜ退屈を恐れるのだろうか。確かフランスの自動車メーカーのコマーシャルのコピーが「退屈へのレジスタンス」とかだったと思う。だいたい退屈だと感じるときにそれを恐れたりするものなのだろうか。全く訳が分からん。