Raymond QUENEAU, Le chiendent, Gallimard, 1933

物語は書物の中にあるのであり、物語によって書物が作られるのではない。われわれは容易に物語の彼岸に赴くことができるのであり、そこになんらの困難もない。ただし物語の彼岸に辿り着いたとき、人は平板な存在となる。いったい誰が自らの平板さに気づきうるというのか? こういうことをいっているように感じた。いやこれは先日のCélineよりずっといい。
ところで、この小説の文体には少々難儀した。よくラップの歌詞にあるような母音を省略したやつだ。ちょっと列挙すると、

chais pas
xa
p'têt'
Vlà
spa

実はこれらが何を示しているかはよくわからないのだが、まあ勘で正解だと思うものを書いてみると、

je ne sais pas
que ça
peut-être
Voilà

で、最後のものがよくわからなかったのだが、どうやら文末に来て疑問文を作る、という点から考えて、

n'est-ce pas

ではないかと想像した。最初、文末でいきなり「温泉?」とかいっているのかと思ってビビったが(ちなみにフランス語で温泉を示すspaという語はない、少なくとも辞書には)、別の場所に、s'pa という表記もあったので、こうではないかと思った。どうでしょう。おわかりの方で間違いがあったら御指摘お願いします。ちなみにちょっと面白かったのは、こういう表記がなされるのはだいたい特定の登場人物の台詞のところなのだが、その台詞の直後の地の文も同じようにこのような表記になるということだ。そういえばCélineにはこういう表記はなかったな。こういう省略って、読んでいて何となくスノッブな感じがするのだがいかがだろうか。「下層階級(といっていいのだろうかしらんが)の人たちのフランス語をリアルに表現していますよ」ということをひけらかしているような感じがするのだが、考え過ぎか。